访问先の奥さんに「红茶にしましょうか、こーひーにしましょうか」と闻かれたとき、日本ならこう答えるのが普通です。
「あら、どうぞもうおかまいなく。」
すると、奥さんはこの客は本当はどちらが饮みたいのだろうかと一生悬命考えて、自分なりの判断を下し、どちらを「どうぞ」とすすめます。
客は、自分が饮みたいとひそかに思ったものと别のものが出しても、大変満足した様子で、ありがたくいただかなくてはなりません。
もし、自分の言叶どおり、何もかまってもらえなかったと、心の中で、「なんでもなしの悪い家だ」と批判的な気持ちを持つことでしょう。
これを日本独特の察しあい(注:互相体谅)の文化ともいいますが、お互いにずいぶん手间をかけ(注:费工夫)、思いやりをかけ合っているものです。
欧米の奥さんは「どちらでも结构です。」などと答えられると、途方に暮れます。相手の言叶の裹や、気持ちにあれこれ想像をめぐらし、察する(注:推断,判断)ことが苦手なのでしょう。
先日、ダムの建设にたずさわってをられる技师さんとお会いする机会がありました。「われわれ技术者にとっては、制约が多ければ多いほど、仕事はやりよいのです。その制约をどうやって解决するか、その方法をひとつずつ考えていけばよいのですから。」
なるほど、まったく无条件にダムを设计するとしたら、、――――手のつけようがないこともあるでしょう。与えられた条件を満たし、解决することが、技术屋さんの仕事かもしれません。
ここが文科の人间と技术者の根本的な违いではないかと思います。心の働かせ方がまったく违います。何もないところから、远心力(离心力)で无制限に広がっていくのが、文科的発想です。
それで、先ほどの「红茶ですか、コーヒーですか」に対する日本人と欧米人の対応の仕方のちがいの问题にももとるのですが、与えらた条件に従って动くという点で、欧米人技术屋さん的であり、自由に発想するということでは、日本人は文科的な想象力(中文)豊かな国民である、という捉え方ができるのではないかと考えてみました。
もちろん、どちらが良い悪いの问题ではありませんけれど。
第二段:
その岛には二匹の鬼がいて、二人を食べてしまおうとしました。一寸法师はお姫様を守るために、前に出て、声を上げました。
「一寸法师ここにあり。覚悟しろ。」
鬼は一寸しない一寸法师を见て、大笑いをしました。鬼は一寸法师を抓み上げ、手の指くらいの男の子を见て、「そんなに小さなお前に何ができるのか。このちびめ。」と嘲笑いました。そして、一寸法师を饮み込んでしまいました。でも、鬼のお腹の中で、一寸法师は针の刀であちこち刺しながら、上に登って行きました。
「痛い、痛い。」と鬼が叫び声を上げましたが、一寸法师はカいっばい刺し続けて、鬼の鼻から飞び出してきました。鬼はこれを怖がって、持っていた金银财宝をすべて残して逃げてしまいました。鬼の财宝の中には、人の愿いを何でもかなえるという打出の小槌がありました。一寸法师が、「わたしの身长が大きくなりますように」と言いながら打出の小槌を振ると、彼の身长は一気に伸びました。金银财宝をも持ち出し、お姫様と一绪二、彼は都に戻ってきました。
一寸法师は、故郷の両亲を呼び寄せ、お姫様の父上とも和解し、妻との间に子どもを三人もつくり、しあわせに暮らし始めました。